つゆのあとさき
2009-07-09


昨夜までの激しい雨がまるでよく思い出せない一夜の悪い夢だったかのようにカラリと晴れた今日の青空を、僕はベッドに寝転がったまま見上げていた。隣では昨夜は窓を打つ雨と風に怯えていたはずの悠が、軽い寝息を立てて安らかに眠っている。反対側を向いた悠の肩がゆっくりと上下に動き、そこから足にかけての精妙なラインを息づかせていた。僕は目だけでそのなだらかな丘陵の端から端までをたどり、その行方がはっきりしない爪先を想像したあたりで消息が途絶えてしまった目線を回収した。
 休日の朝に動き出すにはまだ少し早い時間だったが、窓にぺったりと張り付いたような青空から降り注ぐあまりにも透明な光が僕の気持ちを逸らせた。体中にムズムズと生まれたばかりの予感が這いずり回るようで、僕はもうじっとしていることができなくなった。悠を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、まず台所に行って水をコップに二杯飲んだ。それからリビングの東側と南側のカーテンを開けて、東側の窓を全開にした。窓から見える景色は相変わらずだったが、南の方向に見える新しく風景に加わったマンションをしばらく眺めてから、東側百メートルくらい先に見えるビルの解体工事の準備が進んでいる様子を確認した。そして玄関に行って新聞を取ってくるとそのままトイレに入って新聞を拡げた。そこでは僕も昔聴いたことのあるロックスターの薬物死と、東北の沖合で発生した小規模な地震が報じられていた。とりあえず総体としては今日も平和な世界ということでいいんじゃないだろうかと僕は総括して、トイレの水を流した。どちらかといえば新聞の記事よりも僕はこの水洗のレバーが最近どうもスムーズに動かなくなったことの方が気になってしまう。引く時にも戻る時にもキーキーと軋むような音を立てて僕を苛立たせる。レバーはその表面に覗き込んだ僕の顔を間の抜けた形に変形させて映し出し、最後にしゃっくりでもするように小さく震えてから、どうだとでも言わんばかりに勢いよく水を流し出した。
 僕はジャムをたっぷりのせたトーストとバナナで簡単な朝食をとってから、軽くストレッチをした。それからヤカンにたっぷりの水を入れてコンロにかけた。
「おはよう」
 寝室からしわくちゃでヨレヨレのままの悠が出てきた。コーヒーのグラインダーの音と、挽き立ての豆の香りで目が覚めたのだろう。
「私の分ある?」
「もちろんさ。ついでに何か食べる?」
「いらない」
 ソファに倒れ込むようにして座っている悠に目をやりながら、僕はまるで時計職人のように精密にそして慎重に二人分のコーヒーを淹れた。
 悠はウチにある一番大きなマグカップに入ったコーヒーを受け取ると、両手で抱きかかえるようにして淹れたての熱いコーヒーをズズッとすすった。
 僕はさっき新聞で読んだロックスターの話を悠にしてみた。悠も結構洋楽好きだったはずなのでもしやと思ったのだが、「知らない。誰、それ?」と言われて何も言えなくなってしまった。ジェネレーション・ギャップにつまずくありがちな話をここでもまた繰り返しただけだった。もちろんそれ自体にも、そして誰にも罪はないのだが、それは確実に二人の間に静かに寝そべるようにして横たわり、時折顔を起こしては話をさえぎってそしてまたパタンと横になってしまう。
 二人はそのままソファに座ってコーヒーを飲みながら、昼までテレビを観た。悠は僕の知らない若いお笑いコンビを見てゲラゲラと笑っていたが、さすがに腹が減ったのかお腹をグルグル鳴らしながら、「お昼なんにする?」と言って体をくねらせた。そうだな、今日は天気がいいからとりあえず出かけるか。それから考えても遅くないだろ。オーケー。
 念のために僕たちはどこに出かけるんだったっけ? ともう一度聞いてみたくなるくらいの長い時間をかけて、悠は洗面所の鏡の前で化粧をした。そのくせ結局顔がほとんど隠れてしまうようなつばの大きな帽子を被るんだ。にわか雨が降るかもしれないから折り畳み傘も忘れないでくれよ。

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